異:試し読みページ

 

喘ぐヒト

 

「は……っ…………も……ダメ……」

「落ち着いて……息を吐いて下さい。後少し……んっ……」

「はっ……あ……きっつ……」

「キツイ……のは……ボクの方……です……っ」

「あ……も……無理っ……裂ける!!」

ビリッ……。

ささやき声だけが満ちていた静かな部屋の中に、布が裂ける音が混じる。

「あ」

「あ」

息を弾ませていたボクらは間の抜けた声を上げ、破れた赤い布――先輩のスキーウェアを凝視した。

「……先輩、着膨れし過ぎです。いくらゲレンデが寒いからって、ウェアのチャックが上がらない程、着込む事は無いと思います」

「だってほら、俺って体脂肪率少ないから、普通の人より寒さを感じやすいんだよ」

「やすいんだよ……じゃありません。先輩は体脂肪どころか筋肉すらないじゃないですか。いまだに山岸君の幼稚園児の姪っ子に腕相撲で負けるんですから」

「あの子には勝てないってー。肉体的にも精神的にも」

「はぁ……。そんなんで本当に、スキーできるんですか?」

「んー、まぁ小園(こぞの)君がいればどうにかなるかなって」

「ゼミ旅行に来てまでも、ボクは先輩のお守役なんですね……」

窓から見える白銀の世界を眺め、ボクはため息をついた。

「おーい、オマエら、まだ準備終わらねえのかよー」

ノックもせずに部屋に入ってきた山岸君が、ワクワクとした表情でボクらを急かしてくる。

あごに生やした無駄な無精――もとい、おしゃれひげのせいでかなり上に見えるが、彼はボクの一つ上、二年のゼミ生だ。ボクが浪人しているせいで実はボクと同じ年だと言うと、大抵の人間は気まずそうに目をそらす。

「先輩が厚着し過ぎて、ウェアが切れちゃったんですよ。ペンションのレンタル品なのに……」

「じゃあ、小園が襲ったことにしときゃいいじゃん」

「何をどう頑張ってもよくないですよね」

「オマエら、サークルでも疑われてんだぞ。隠すならもっと上手く隠せよな」

先輩は痛いところを突かれたからか、ただでさえ細い目をさらに細めて、山岸君を見つめた。

「……別に疑われたところで、ハナから彼女が出来る可能性は無いに等しいからねぇ。俺は気にしてないよ」

「先輩……最近、本当に色々と放棄してますよね」

ボクはこの会話を切り上げたくて、さっさと先輩の破れたスキーウェアをガムテープで止めた。

一時的な応急処置だが、これで急場はしのげるだろう。あとはゲレンデから

戻ってきたらオーナー夫婦に謝るだけだ。

やたらとはしゃぐ山岸君と、運動神経皆無の先輩。そして何かと『不思議なこと』に遭遇するボク。

――この半ば閉ざされた雪山で、何事もなく過ごすことができればいいのだけれど……。

ボクは少しだけ湧きあがった不安を閉じ込めた。

ログハウス風のペンションの一室。ボクらが寝起きするこの部屋に、うっすらと、ムスクの香りが入り込んで――。

 

掘る音(表題)

 

 

一 掘る音

 

「寒い……寒いよぉ、小園君……」

先輩はペンションに戻るや否や、ガタガタと震えながらロビーの薪ストーブに駆け寄っていった。

「雪山に来たんですから寒いのは当たり前です。そもそも、もう少し体を動かせばそんなに寒い思いをせずに済んだんですよ」

「だってぇ……」

「スキーをしにここまで来たというのに、硬直したまま、身体が冷えるまで動かないなんて狂気の沙汰ですよ」

「俺、スキーなんてやったことないから、もう怖くて怖くて……」

「だからボクが隣で支えていてあげたんじゃないですか」

「うん。キミがいなかったら、このペンションに戻ることすらできなかったかもしれないね」

「運動オンチにもほどがありますよ……」

「ウ……ウンチとは失礼だな、後輩のくせに口を慎みたまえ」

「はぁ……」

ボクは呆れ返り、もう一人の先輩に文句を言うために、後ろを向いた。

「山岸君、少しはこの運動オンチの先輩に何か言ってやってくださいよ」

突然話を振られたにも関わらず、山岸君はスキーウェアをキザに脱ぎながら、滑らかに口を開いた。

「俺はこのゼミ旅行でスキーライセンスを取るつもりだ。やる気のないヤツに興味はない。悪いが、その鈍重な彼は小園君が面倒を見てくれたまえ」

山岸君はゴミを見下ろすかのような目つきでボクらを見ると、先ほどからずっとロビーのソファーに腰かけていた女の子――このペンションの娘さんに微笑みかけた。

「というわけで、俺のブロンズライセンス証、用意しておいてね。サキちゃん」

「はぁ~い。楽しみにしてまぁす」

サキちゃんと呼ばれた彼女は明らかな作り笑顔を山岸君に向け、その長い巻き髪を指で弄んだ。

 

――ペンション・トワ・エ・モア。

とある地方の雪山奥深くにあるこのペンションは、ボクと先輩と山岸君が所属するゼミの教授の教え子が経営する、小さなペンションだ。

普段は教え子であるオーナーと奥さんの二人きりで切り回すため、宿泊客も限定されているのだが、教授の紹介もあって三日間の貸し切りで非常に良心的な値段で泊まることができたのだ。

「狭いペンションで申し訳ございません。若い人では退屈かも知れませんが、トワ・エ・モアの温泉と家内の料理を存分にお楽しみください」

「もちろん、スキー用品はご自由にお使いいただいて構いませんのよ。低くてよければライセンスの取得も可能ですので、その時はご相談くださいね」

そう言って、頭を下げてボクらを迎えてくれたオーナー夫婦はとても真面目で、誠実そうだった。

これなら、雪深く俗世から隔離されたようなペンションでも、静寂と、オーナー夫婦の心のこもったもてなしを求めて来る客は多いだろうと納得できる。

今も、ソファーやテーブルの置かれた一階のロビーには、ボクらが集まってくつろげるようにと薪ストーブが暖められており、オーナー夫婦の心使いが感じられる。

「なんか、一年のうちからゼミに連れ込まれてしまって、正直困惑していたんですけど、こんな旅行に連れて行ってもらえるなら、ゼミに入っておいて良かった……なんて思っちゃいますね」

ボクはロッカーに借りていたスキーウェアを戻すと、いまだ背中を丸めてストーブに当たっている先輩の隣に座った。

先輩はようやく身体が温まったのか、真っ白だった顔にほんのりと赤みが戻ってきている。

「まぁ、ぶっちゃけて言うと、人手が足りなくて、手伝わせるつもりで無理やりキミを入れたんだけどね。いいパシリができたって、教授も便利がっていたよ」

「この雪山から帰るのに、先輩しか運転できないから我慢しますけど、結構殺意を覚えますね、その言葉」

「そうむくれるなよ。慌てて二年、三年になって適当なゼミに入って後悔するよりも、今のうちに慣れて、新しい研究生が来たら偉そうな顔ができる立場にいた方がいいだろ」

そう言った山岸君はボクらの向かい側に腰を下ろす。

ふわりとした座り心地の良いソファーに、一瞬眠気を誘われてしまうが、あくびをするよりも早く、コーヒーの良い匂いがボクの鼻腔をくすぐった。

「コーヒー持ってきましたよぉ」

先ほどまでソファーの片隅に座っていたサキちゃんが、トレーにコーヒーを用意して持ってきてくれた。

「うっわ~。超嬉しいっ‼ サキちゃんが入れてくれたの?」

「残念。ママに持って行けって言われたから、持ってきただけですぅ」

「いいじゃん、それでもいいじゃん‼ ペンションのお手伝いをする可愛い女子高生……たまらないねっ。ここ、俺の隣空いてるから、ここ座んなよっ。せっかくだしさ、話そうよ」

声を裏返してサキちゃんを誘う山岸君。

確か彼には、つい数か月前に合コンで知り合った彼女がいたはずだが、あっさり乗り換えるつもりだろうか。

――まぁ、スキーと祭りの出会いは三割増しって言うし、調子に乗っているんだろう……。

ボクは彼の男心を汲み、後で恩を売るつもりで何も突っ込まないでおこうと決めた。

そんな軽い男、山岸君の隣に座ったサキちゃんは、興味津々といった様子でボクと先輩を交互に見ている。

「あの、二人って、先輩と後輩なんですよねぇ?」

彼女は若い娘独特の、語尾の伸びた口調で話しかけてくる。

年のころは十七、八といったところか。丁度冬休みで、寮から両親の働くペンションに戻って手伝い――もとい、暇をつぶしている……とオーナー夫婦が言っていた。

微妙な年頃で、あの真面目なオーナー夫婦も持て余し気味なのだろうが、大方、ボクらと年齢的に近いので親近感が湧き、つい馴れ馴れしくなっているのだろう。

――馴れ馴れしいのは山岸君のほうだし……。

大体の推測を済ますと、ボクはようやく彼女の質問に答えた。

「そうですよ、ボクは大学一年。先輩は二年ですから」

「へぇ……なんていうかぁ、小園さんの方が年上に見えますねぇ」

「はは……これでも俺は彼より三つ年上なんだけどねぇ」

苦笑いしながら答える先輩に、サキちゃんは小さな首を傾げる。

「えー、なんで三つも年上なのに、一つしか学年違わないんですかぁ?」

「それは、大学には浪人という制度と、留年という制度があるからだよ」

「その制度を生かすと、小園と俺みたいに、同じ年齢なのに俺の方が、学年が上……とかいうマジックが使えるわけだよ」

「マジックでもなんでもなくて、単にボクが浪人したって言えばいいじゃないですか、嫌味たらしい」

ボクは横から口を挟んできた山岸君を睨んだ。

「でもぉ、結構年が離れているのに仲いいですよねぇ。特に小園さんと――」

「やっぱサキちゃんも気がついたー? こいつら学校でも噂されるくらい仲いいっつうか、今、絶賛同棲中なんだぜ」

「人の言葉尻食ってまで、誤解されそうな情報垂れ流さないでください。単なるルームシェアなんですから」

「そうそう、小園君が貧乏学生だからねぇ。俺の家に間借りさせているだけ」

「へぇぇ…………」

ボクと先輩を、新種の生命体を見るような目で見つめるサキちゃん。

この年頃の女の子は鋭いし積極的なので、非リア充なボクとしては苦手な相手だ。

すでに人見知りオーラが出まくっている先輩は、彼女と目を合わせないよう、ストーブの方を向いたまま猫背の背中をこちらに見せ続けている。明らかに関わりたくないのだろう。

「ルームシェアとかって嘘ですよねぇ?」

「はっ!? なんで!? 本当ですよっ」

冷静にならなくてはと思いつつ、声が裏返るボク。サキちゃんの小綺麗な顔にニヤニヤとした笑みが広がっていく。

「だってぇ、二人とも彼女とかいなさそう……っていうかぁ、女の子とか苦手そうですしぃ」

「苦手というなら、俺は人間自体が苦手だけどねぇ」

「ああ、先輩極度の人見知りですしねぇ……はは」

「へぇ~、別に女の子が嫌いってわけじゃないんだぁ。じゃあ、両方イケるクチとか?」

――突然何を言い始めるんだ、この子は。

ボクと先輩は互いに目を合わせ、困惑した思いをぶつけ合う。

「じゃあさ、二人いっぺんに相手してあげるしぃ、あたしと付き合わない?」

『はっ!?』

今度の驚きの声は、ボクと先輩だけではなかった。サキちゃんの隣に座る山岸君までもが、半分腰を浮かせ、大きな口を開けている。

「あたし一時の付き合いとかって平気なほうですしぃ。皆さんもぉ大学生なら、やることやっちゃってるんでしょー? だったらいいじゃん、あたしと一冬の思い出作っちゃってもぉ。ふふふっ」

「……何を言っているんだね、キミは……」

こめかみをひくつかせて言う先輩の頬には、冷や汗が流れている。

「そんなガード堅くすることないですよぉ。友達とか結構平気で大学生の男の人と付き合ったりしてるしぃ、普通のことですよぉ」

――ああ、この子は単に大学生と付き合ったことがある……という自慢材料が欲しいんだな……。

この年頃にありがちな、くだらないプライドの張り合いだろう。あわよくば、大学生の彼氏ができたという武勇伝を友達に語りたいと思っているのかもしれない。

もしかしたら彼女は女子校生で、日頃の堅苦しい寮生活で鬱憤が溜まっているのだろう。

そんな予想に、ボクは苦笑を浮かべた。

だが、山岸君は意地汚くも、彼女の話に食いついていく。

「ねえねえ、サキちゃん。だったら俺と付き合おうよ。今さ、俺フリーだし」

「……山岸君、合コンの彼女は……?」

疑問に耐えかねた先輩が山岸君に尋ねる。

「ああ……なんかこのところ連絡途絶えちゃってさぁ」

「自然消滅してたんだ……」

「つーわけで、こんな根暗な野郎どもより、俺と付き合った方が絶対楽しいって!! もち、一冬とは言わずにさぁ、長く付き合っちゃおうよ」

「えー、なんかぁ、山岸さんって手ぇ早そうでちょっと怖い……」

――二人いっぺんに相手するとか言っていた子が、何を言っているのだろうか。

軽いノリの山岸君が、大学生にしては頭が悪そうで単に嫌なだけだろう。

ボクは勝手に彼女の好みをそう判断していたのだが、意外にもそこまで嫌ではなかったらしい。

サキちゃんは少し考えるようにファンの回る天井を眺めていたが、やがて山岸君に向けて微笑むと、白く細い手を差し伸べた。

「わっかりましたぁ。じゃあ、もっとお話ししましょう、山岸さんの部屋で……」

「はい喜んでー!! というわけで、失礼させていただくよ。モテない諸君」

山岸君は大学内では中々見せないテンションを剥き出しにして、サキちゃんの手を握って二階の部屋へと行ってしまった。

彼らの背中を見送る先輩が、ため息交じりに口を開く。

「……今時の子って、積極的なんだねぇ」

「雪山の一軒家ですから、ペンションの宿泊客に絡むくらいしか娯楽がないんでしょう。ま、せいぜい山岸君が本気にならないことを祈ります」

冷めた気持ちのまま暖かい部屋でくつろぐボクらの鼻腔に、甘い紅茶の香りが近づいてきた。

「あら、皆さんお揃いかと思って、お紅茶を持ってきたんですが……」

オーナーの奥さんが、トレーに湯気の立つ紅茶を入れて持ってきてくれたのだ。

「あれ? さっきサキちゃんが奥さんに頼まれて、コーヒーを持ってきてくれたんですが……」

「……あら……あの子ったら勝手に……」

普段は穏やかな奥さんの顔に、困惑とも嫌悪感ともとれる微妙な表情が浮かぶ。

そう言えば、オーナー夫婦とサキちゃんが揃っているところを見たことがない。やはりこんな小さなペンションでも、親子間の問題というものはあるようだ。

だが、所詮三日間宿を借りるだけの宿泊客には関係のないこと。ボクは深入りせずに話題を変えることを選んだ。

「折角ですから紅茶もいただいていいですか? コーヒーも冷めてきましたし、部屋でゆっくり飲みたいなと思います」

「ええ、是非飲んでくださいな。でも、三人分用意したんですけど、もう一人のご友人は……?」

「あー、山岸君は服が濡れたとかで着替えに部屋に戻っちゃいました。気にしないで大丈夫です」

「そうそう、スキーなんて普段やったことないですしね。不慣れなもので……」

まさかお宅の娘さんを連れて部屋に立てこもってしまったとも言えず、ボクと先輩は誠意ある嘘をついた。

だが、長い間母親をやっているだけのことはある。奥さんは何かに感づいたのか、半ば怒ったように口を開いた。

「もしかして、サキがご友人を唆したりしていませんよね? 若いお客さんだからってはしゃいでいたし……お客さん相手に失礼なことがなければいいのですが……」

「あーいえ……むしろ失礼な野郎は山岸君ですし……なんかすみません……」

なぜ、保護者でもないのに自分が謝っているのだろうかと思いつつ、ボクは頭を下げた。

人当たりの良い、真面目そうな奥さんはボクの謝罪で少しは気が紛れたのか、クスリと苦笑いを浮かべると、「ごゆっくり……」と言い残して去っていってしまった。

「なんだか、教授とオーナーの仲を裂きそうで怖いねぇ。山岸君が」

「いいんじゃないんですか、出禁になるとしたらきっと山岸君だけですよ。もしかしたらゼミにも出禁になるかもしれませんが」

ボクらは湯気の立つ紅茶を手に取り、顔を合わせて笑った。

口に含んだ暖かい紅茶が、じんわりと身体に染み渡る。暖炉でしっかりと暖められていたはずのロビーだが、底冷えするような寒さは防ぎきれないようだ。

ボクはかじかんでしまった手を紅茶で温めながら立ち上がった。

「先輩、部屋戻りませんか? ここ、暖房効いてても寒いんですよね」

「確かに部屋で暖まりたいねぇ。スキーで身体が冷えちゃったしね」

「だからそれは、先輩が身体を動かしていないからですよ」

「ええ~……」

くだらない会話をしながら、ボクらは部屋へ戻る。

トワ・エ・モアは客室が二部屋しかない小さなペンションなため、山岸君は一人部屋を確保していたが、ボクと先輩は同室だった。

それでも、普段から狭いワンルームで共同生活をしているボクらからしたら、むしろペンションの部屋は広いくらいで、先輩は疲れた足を投げ出して、のびのびとベッドに腰掛けた。

部屋の出窓から、闇の中を白い雪がちらちらと舞っているのが見える。

「雪、降ってきちゃいましたね」

窓辺に立ったボクの独り言に、先輩は嬉しそうにガッツポーズをとった。

「よっし、明日のスキーは中止だね!!」

「……山の天候はころころ変わりますから、明日には止んでいますよ。というか、スキー旅行に来てスキーができなくなって喜ぶのって、先輩くらいですからね」

「はぁ…………」

猫のように背中を丸めてため息をつく先輩に微笑むと、ボクは窓際の暖房器のスイッチを入れた。

すぐにモワ……とした熱気が暖房器から流れ出し、ロビーにいた時よりも部屋が暖まっていく。

「部屋のほうが暖まりいいよね。なんだか、このペンションってそこはかとなく寒いから、部屋にいた方が安心するし」

「ですね。やはり雪山ですから一階は底冷えするんでしょう」

「山岸君たちも、今頃部屋でヌクヌクしているのかなー」

「先輩、下品ですよ……」

「ひひひ……」

先輩は下卑た笑いを浮かべていたが、すぐに目を細め、ボクを見た。

 

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