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思い出すヒト

 

桜の花びらが、踊るように夜空に舞っている。

細い、糸のような三日月の下で、満開の桜は今年限りの短い命を散らそうとしていた。

「桜なんて、去年のものも、今年のものも同じだって、思っていました」

ボクはぬるくなったビールを一口飲むと、ベランダの手すりに寄りかかって言った。

「一人で見る桜。二人で見る桜。同じ桜でも違うように見えるもんなんだねぇ」

ボクの隣に立つ、三つ上の先輩は、いつものようにのんびりとした口調で律儀に返事をしてくれる。

そして、返事をしたついでに、彼はボクの頭に軽く手を乗せた。

細い先輩の手のぬくもりを感じ、ボクは小さく笑う。

「大学に入って、母が他界して、先輩と暮らすようになって……怒涛の一年でした。確かに、ここまで環境が変ると思いませんでしたよ」

「はは。でも、俺も無事三年に上がれることになったし、今年の春休みは安心して過ごせるかな」

「先輩と同じ学年になっても、それはそれで面白いと思っていたんですけどね」

「やだよ、三つも上なのに後輩と同学年とか。複雑過ぎて泣けてくる」

先輩はボクの頭から手を離し、ぬるくなったビールを飲み干した。

先輩の白く細い首の喉仏が動き、その近くを桜の花びらが通過していく。

「願わくは……来年も同じ桜を見たいものですね」

ため息交じりに言ったボクを、先輩は不思議そうに見ている。

「キミが出て行かない限りは、また来年もこのベランダでビール飲みながら、二人で同じ桜が見られるんじゃないかな」

「それは――どうでしょうかね……」

「?」

少し不安げな表情を浮かべる先輩と、あの人の顔が被る。

――そう言えば、高校の時のOBも、よくこんな顔をしていたな。

だが、彼は今の先輩と違ってもっと……積極的だった。

困惑し、動揺するボクの唇を割って舌を差し込み、期待と不安で動けなくなったボクを何度も貫いていった。

それでも、嫌ではなかった。

ただ、どうしていいかわからなかっただけで。

――今では、慣れた自分が嫌になるくらいなのに……。

「小園(こぞの)君、どうしたの?」

「あ……いえ」

先輩の冷たい手が頬に触れる。

その感触に我に返ったボクは、彼の細い目を見つめて言った。

「先輩……本当に覚えていないんですか?」

 

 

死神憑き(表題)

 

一 死神憑き

 

本当に突然の出来事だった。

ボクの目の前で、同じクラスの女の子が飛び降り自殺をしたのだ。

だが、ボクは彼女が飛び降りる様を見ていたわけではない。

校舎裏の細い道を走って、食堂へと急いでいたボクの前に、隕石のごとく女の子が落下してきたのだ。

あと二歩ボクが前に進んでいたら、きっと彼女の下敷きになっていただろう。

――ああ、今日は昼抜きだな。

冷静にも不謹慎な思考がよぎったが、ボクは反射的に、頭から血を流し、身体を痙攣(けいれん)させている彼女に心臓マッサージを施した。

ボクと同じく、運悪くこの現場に居合わせてしまった数人の生徒が叫び声をあげ、救急車や学校医を呼びに走り去っていく。

「はぁ……ああもう……はぁ……あと一週間もしないで……はぁ……春休みになる……はぁっ……ってのに……はぁ」

心臓マッサージが意外にも体力を消耗することに驚きつつ、ボクは乱れた呼吸を整えるために天を仰いだ。

抜けるような青空と、彼女がダイブしたと思わしき四階建ての校舎が視界に映る。

「はぁ……はぁ……あれ?」

整えようとした呼吸が、一瞬止まる。

校舎の屋上から身を乗り出してこちらを見下ろす、幼女の姿に気が付いたのだ。

血のような、真っ赤なワンピースを着ているその幼女は、鬼のような形相でボクを睨んでいる。

「………………」

幼女は、ボクが瞬きをする間に姿を消してしまった。

目の奥で、さわやかな青空と鮮血のような赤い残像がチラついている。

――五歳くらいの子が、なぜ大学なんかに……?

ボクは、彼女の大人びた目つきが気になっていた。

だが、今は心臓マッサージに集中すべきだ。

余計な考えを振り払うように下を向いたボクの耳に、救急車のサイレンの音が聞こえて――。

 

××××××

 

「小園君が……助けてくれたんだってね」

「あなたの運が良かったんですよ」

消毒の匂いが充満する病室の中、ボクはベッドに固定された女の子の隣で、人生で一番居心地の悪い時を過ごしていた。

――なんでボク、ここにいるんだろう……。

名前も憶えていない同級生の自殺未遂現場に遭遇し、救命救急の真似事をしたために、ボクは彼女の救急搬送先の病院にまで、付き合うことになってしまったのだ。

ボクは激しく遠慮したのだが、彼女の彼氏だと勘違いした看護師に『親御さんが到着するまでいなさい』と、叱られる始末。

本当に今日はツイていない……。

内心では大いにしょげているボクに、ベッドの上の彼女は遠慮することなく話しかけてくる。

「お医者さんが言ってた。打ち所が良かったのもあるけど、小園君がすぐに心臓マッサージをしてくれたから助かったんだって……」

「でも、両手足骨折なんて大事故じゃないですか……」

「事故じゃなくて……自分から飛び降りたの……」

「……だ……だめですよ、あんな高いところから飛び降りたら」

我ながら小学生みたいな説教だと思ったが、全身を包帯で巻かれ、さらには拘束具でベッドにくくりつけられた彼女は、ゆがんだ笑みを浮かべた。

「ふふ……動けない私をベッドに縛り付けるなんて、バカみたい」

「地方にいるご両親が到着したら、拘束具も外してもらえますよ。すみません、ボクにはどうすることも出来なくて……」

「優しいね、小園君」

「そんなこと……」

「……あなたが……彼だったら良かったのに……」

痛々しく腫れた彼女の顔に、血で濁った涙が流れて、落ちる。

「私……ふられたの。高校の頃からずっと付き合ってた彼に。……彼がこの大学を選ぶって言うから、内定取ってた大学を蹴ってまで一緒に上京してきたのに……あの人……今になって、他に好きな女ができたって……」

「あー……それは最悪ですね」

「許せないのは、しばらくの間、私とその女で二股をかけていたってこと……その女は、私が彼と付き合っていることを知ってたって言うし……うぅ……っ」

「泥沼ですね……」

――すみません、本当に気の利いたことを言えなくて。

一刻も早いご両親の到着を待ちわび、ボクはその場を繕う言葉を探すだけのロボットと化していた。

「私……その女を殺したかったの……でも……出来なかった……。出来るわけないじゃない、殺人なんて!」

「そうですね……。でも……自分を殺すことも殺人ですよ」

「……わかってる。でも、もし私が死んで、生まれ変わって、彼のそばに行くことが出来たら……もう一度、私を愛してくれるかなって……思ったの」

「……死んでしまったら、それはあなたではありません」

「…………」

知らずに真剣な顔をしてしまっていたのだろう。彼女は泣くことを止め、ボクの顔を驚いたように見つめている。

「ボクだったら、同じ顔、同じ姿、同じ性格の人であったとしても、同じ思い出を共有していた人と、共に生き続けたいって思います。……絶対に」

「……小園君……」

「すみません、変なこと言ってしまいましたね」

ボクは肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐いた。

一方、乾いた涙の跡を残した彼女は、ス……とボクから目を離し、天井を見上げた。

「そう……なのかな。うん、そうだよね。私が死んじゃったら、それもう私じゃないもんね」

どうやら、何か納得したらしい彼女は、今度こそ素直な笑みを浮かべてボクを見上げた。

「ありがとう、小園く――」

「小園君!!」

怪我人がいる病室を揺らし、音を立てて誰か――先輩が飛び込んできた。

言葉尻を取られた彼女は口を開けたまま、突然の訪問者を見ている。

むろんボクも首をひねり、呆れを込めて彼を見た。

息を切らし、顔面蒼白になっているのは先輩ただ一人。

「小園君……生きてたんだね……」

「先輩……泣きそうになっているところ申し訳ないんですが、誰かに騙されて、慌ててここに駆けつけましたね?」

先輩はボクの言葉を聞くと、アルミホイルを奥歯で噛んだ時のような顔をして、床に突っ伏した。

「山岸君が……キミが屋上から飛び降りて、病院に運ばれたって……しかも意識不明の重体で、ご両親も呼ばれたって言ったんだよぉ……」

「悪友に騙されたのは同情しますが、ボクの両親はすでにいないことくらい、本能で思い出してくださいよ。それが理由で、先輩の部屋に間借りしているんですから」

「うぅ……小園君のバカぁ……」

「いいから立ち上がってください……」

白い床の上で、恥ずかしさと悔しさで身悶える先輩を、ボクは助け起こした。

飛び降りた張本人の彼女は、未だ口を開けたまま先輩を見つめている。

「すみませんね、お騒がせしてしまい。先輩、たまに暴走する時があるんです」

「ううん、大丈夫。なんだか羨ましくなっちゃっただけ」

「え、羨ましいですか?」

「うん、だってとっても仲が好さそうなんだもの、お二人って」

彼女の言葉が、ボクらの間に緊張を生む。

隣に立つ先輩は、高校生と間違えられるその童顔を明後日の方に向けた。

ボクより上級のコミュ障な彼は、どうやらフォローの全てをボクに任せる気でいるようだ。

ボクは先輩の援護は諦め、一人で彼女の目を真実からそらすことにした。

「腐れ縁ですよ。気が合うから一緒にいるだけで……はは」

「でも、一緒に暮らしているんでしょ? 先輩も小園君のこと好きなんですよね?」

「ああ、まぁ、うん……はい、そうです」

「先輩っ!」

肯定の言葉を羅列した先輩を慌てて止めるも、彼はケロっとした顔で言葉を続ける。

「だって嫌いな人と一緒に暮らすわけないし、こんなことで嘘ついても……ねぇ?」

「ボクに同意を求めないでください」

「うふふ」

ドツボにはまっていくボクらの前で、大怪我をしているはずの彼女が笑う。

その様子に、先ほどまでの暗い影は無い。

「なんか二人を見てたら、私の悩みなんかすごくちっぽけに思えてきた」

「へ?」

「だって、あなたたちが付き合うのって大変でしょ? 恋人同士なのに人前で手もつなげないなんて、二股かけられるより辛いもの」

「そういうもんかねぇ。俺は女心がわからないからなぁ」

「いや、そういうもんとかじゃなくて。先輩、否定するなり誤魔化すなりしてくださいよ!」

「あはは、安心して。私、誰にも言わないから。それより、小園君、帰っていいよ。せっかく恋人が迎えに来てくれたんだし」

「いや、恋人って……」

「私は大丈夫。もう、絶対に自殺なんてしない。それに、そろそろ両親も来る頃だと思うし、小園君たちがいたほうが、余計面倒なことになるかもしれないから」

「それもそうですね……。わかりました。辛くなったら連絡ください。相談相手くらいにはなりますよ」

「ありがと。小園君も先輩のことで悩んだら相談してね」

「…………はい」

ボクと先輩は彼女に別れを告げ、病室を出た。

慌ただしく看護師たちが走る廊下の隅で、ボクはため息をつく。

「きっと、新学年になる頃には、ボクと先輩の噂は大学中に広まってますね」

「んー、もうとっくに広まってるしなー」

「広まっていたんですか……」

「山岸君が、俺たちをネタにしないわけないだろ」

「普段、先輩が誤魔化さないのがいけないんですよ」

「キミも変なところで小心者だねぇ」

「……先輩の図太さには惚れ惚れしますよ……」

とんでもない事件に巻き込まれたにも関わらず、すぐに、こうしてくだらない会話を楽しめる日常に戻れるのは、先輩の人間性の賜物だろう。

彼と出会ってから、不可思議で説明のつかない出来事にばかり遭遇するけれども、やっぱり先輩の隣は一番居心地が良い。

――でも、なんで彼と会ってから、心霊現象に巻き込まれるようになったのだろう……ってそんなこと考えても仕方ないか。

ボクは頭を切り換え、病院の長い廊下に意識を戻した。

まっすぐに伸びる、広い病院の廊下。

平日の昼間だからか、救急病棟の廊下は病院関係者たちでごった返しており、ともすれば健康なボクらですら、何かに足を引っかけて転んでしまいそうになる。

そんな騒々しく、白い風景の中に、一点の赤が飛び込んできた。

血の色を連想させるような赤い服を着た、幼女。

「あのときの……」

彼女は屋上から見下ろしていた時と同じ、憎々しげな表情でボクのことを睨み付けていたのだ。

――なんでここにあの子が?

「小園君、ぶつかるよ」

「あ……っと」

隣にいた先輩がボクの腕を引く。

よろけたボクのすぐ脇を、点滴をつけた男性が意外に速い速度で抜けていった。

「気を付けないと、病院内で交通事故を起こしかねないよ」

「すみません……」

先輩はボクの脇腹に手を回したまま、気にせず歩こうとしている。

いつもならそんな彼に文句の一つも言うのだが、今はあの赤いワンピースの幼女のほうが気になって仕方が無い。

ボクは再び顔を上げ、今さっきまで幼女が立っていた廊下の隅に目を向けた。

そこには、薄汚れた白い壁が、冷たく立ちはだかっているだけだった……。

 

××××××

 

細い、糸のような雨が降っていた。

もう数日で咲くであろう、丸々と太った桜の蕾(■つぼみ)を、暖かい雨が濡らしている。

そんな春雨の中、ボクは駆け足で移動していた。

「あり得ない……寝坊するなんてあり得ないっ」

自分が、試験とレポートとバイトの毎日で疲れていたのはわかる。それに加え、昨日の自殺騒ぎだ。確かに疲労はピークだっただろう。

だからといって、昼食を食べて、そのまま学食の机に突っ伏して爆睡するなんて、初めてのことだ。

日頃先輩とばかりつるんでいて、起こしてくれる同級生が周りに居なかったこともあるが……。

――チャイムにすら気がつかないなんて、あり得ないよ。

次の講義が遅刻にうるさい教授であることを思い出し、ボクは濡れるのも承知で、校舎に備え付けられている外階段を駆け下りていった。

非常階段として作られた鉄製の階段は、吹き込んだ雨で滑りやすく、近道でなければこんな階段を使うなんてことはなかった。

だが、今は非常事態だ。

滑りやすい階段だということはわかっているの。十分注意すればよいだけのことだ。

でも、人はそんなときに事故を起こす生き物である。

――持っていたレポートが雨に濡れる。

そんなくだらないことに気がそれた次の瞬間、自分の身体が宙に浮いたことに気が付いた。

何かに足首を捕まれたように、足がもつれたのだ。

「う……わあぁっ!?」

とっさに持っていた荷物を手放し、手すりに掴まろうとしたがもう遅い。

大きな音を立てて、身体が一度目のバウンドをする。この時点で背中から鈍い音が聞こえたが、落下した身体は止まらない。

再び宙に投げ出されたボクは、二度目、三度目のバウンドを繰り返しながら階段を落ちていく。

――ああ、死ぬ寸前って、本当に景色がゆっくりと過ぎていくんだ。

そんなことを考えている、妙に冷静な自分がいるのがわかる。

その冷静な自分の視界に、咥えタバコの猫背が飛び込んで――。

「小園君っ、大丈夫かい!?」

ボクが頭を真下にして踊り場に着地する直前、先輩がボクを抱き止めてくれたのだ。

混乱する意識を戻したボクは、薄く目を開けて言った。

「……すごく……色んなところが痛いです……」

「……よかった、とりあえずは大丈夫そうだね」

ボクの頭を抱えた先輩は、ほっとしたようにため息をついた。

下半身は階段、上半身は先輩の膝の上というとんでもない体勢だったボクは、ナメクジのようにゆっくりと動き、踊り場の隅に腰を下ろした。

冷たい雨がボクの身体を濡らしていくが、今はそんなことすら気にならない。

「頭とか打ってないかい? すごい体勢で落ちてきたけど……」

「背骨が折れたかと思いましたが、大丈夫みたいです。本当に助かりました、あの体勢のまま踊り場に落ちてたら、さすがに頭を強打してたか、首の骨を折っていたかもしれません」

「びっくりしたよー。タバコ休憩とってたら、いきなりすごい音がして、振り返ったらキミが落ちてくるんだもん」

「すみません。急いでて、足を滑らせてしまったみたいで……って、先輩いい加減、タバコ咥えたままで話すの、やめませんか?」

「ああ……動揺して、タバコ咥えていたのを忘れちゃってたよ」

そう言って、短くなったタバコを携帯灰皿に押しつける先輩。

癖のある、甘みの強い匂いがボクの鼻腔をくすぐる。

激しかった動悸が、ゆっくりと治まっていく。

「キミはまだ講義が残っていると思うけど、今から行くのかい? 立つのも大変そうに見えるけど」

「いや……もう今日は帰ります。レポートもグチャグチャですし……」

ボクは完全にやる気を失い、雨に濡れ、階段にへばりついたレポートや教科書を指さした。

小さく苦笑を浮かべた先輩はボクの頭を撫で、立ち上がった。

立つので精一杯なボクに代わり、彼は散らばった教科書を集めていく。

「じゃ、今日は車で来てるから、一緒に帰ろう」

「あれ? 先輩、午後はゼミに顔を出すって言っていませんでしたか?」

「その予定だったけど、どうせ山岸君はサボるだろうし、別にいいよ。教授も最近じゃ、俺らのことを避けてるしね」

「あー……確かに……」

無理もない。自分の教え子がその妻子と娘の恋人を殺し、自らも命を絶った事件から、まだ数ヶ月しか経っていないのだ。

ましてや、その死んだはずの教え子と電話で会話をするという、奇怪な経験までしてしまった教授から見たら、そのペンションで、さらなる怪奇現象に見舞われたボクらと接するのは嫌であろう。

「ほら、いつまでもここに居たら濡れて風邪ひいちゃうよ。車を持ってくるから、階段の下で待ってるといいよ」

ボクは先輩に手を引かれるようにして、一階に下りた。

階段が屋根代わりになる、辛うじて雨の当たらない空間にぼんやり立ったボクは、霧雨の中、走り去っていく先輩の背中を見送った。

「……変な転び方だったよな……」

足を滑らせたというよりも、足を持っていかれたような感覚だった。

だが、人が転ぶ時なんてそんなものだろう。

それよりも、今はすりむいた肘と、強打した背中の痛みが気になる。

ボクは血の滲んでいる肘を擦りながら、細い雨を眺めていた。

「おーい」

「……えっ……先輩、もう車取って来たんですか!?」

霧のように霞む春雨の向こうで、黒い服を着た先輩が手を振っているのが見える。

――どうせなら、目の前まで車を持ってきてくれればいいのに……。

恐らく校舎をぐるりと回るのが面倒で、あんな微妙に離れた、校舎の向こう側から呼んでいるのだろう。

「親切なんだか、無精なんだか……」

ボクは雨を避けるために下を向き、先輩の元へと行こうとした。

階段を出るとすぐ、車でも通れる広い道に出る。ボクはそこを横切るようにして走り――。

「……っぞのおぉぉっ!!」

「――――っ!?」

突然横手から強い力に引っ張られ、ボクはそのまま水溜まりの上に引きずられてしまった。

バランスを崩したボクが水しぶきをあげて、水溜まりの上に転んだ――その刹那。

目の前を……尻餅をついたボクの足の数センチ先を、黒塗りの車がすごいスピードで走り去っていったのだ。

もし、あのままボクが道を渡っていたら、確実にはね飛ばされていただろう。

階段を落ちたときよりも鋭い恐怖が、ボクを襲う。

「あっぶねぇな。あの車、スピード出しすぎだっての」

「山岸君……助けてくれてありがとうございました……」

ボクはすぐ隣に立つ、同じゼミの先輩の顔を見上げた。

「オマエもバカか! この道は車も通るんだから注意しろって、入学式から言われてただろうがっ。ろくろく左右も見ずに飛び出しやがって、子供かよっ」

親のような叱り方をする山岸君だったが、その唇は青い。恐らく本当にギリギリだったのだろう。

「すみません、A校舎の間から先輩が呼んでいたもので、そこしか見ていませんでした……」

「はぁ? あいつがどこにいるってんだよ」

「だから、あのA校舎と研究棟の間の、小道の向こうに先輩の姿が――」

細かい雨に白む校舎と研究棟。その間に挟まれた、細く暗い隙間道を指さしたボクは、言葉を止めた。

 

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