山岸君の家①

「駅から近いって言ってたのにねぇ……」

隣を歩く先輩が、汗を頬に流しながら言った。

「そんな真っ黒な服を着てくるからですよ」

「俺が鮮やかな色の服を着たら、世界中からバッシングがきちゃうからねぇ」

「どんだけ自虐的なんですか……」

夏の盛り。

入道雲が青空の向こうに見える真っ昼間に、ボクと先輩はアスファルトの熱気に晒されながら、同じゼミに所属する山岸君のアパートへと向かっていた。

ボクの一学年上の、年齢的には三つ上になる先輩は、先ほどから青白い顔でフラフラと歩いている。

「だから車で行こうって言ったのに……」

「来客用駐車場がないんだから、仕方ないじゃないですか。というか、駅から徒歩十分の距離なんですから、へばらないでくださいよ」

「帰りたい……」

「元とは言えば、先輩がバイトのシフトを詰め込み過ぎて、ろくに研究レポートを出せなかったのが原因なんですよ。ボクや山岸君は連帯責任取らされて、夏休みの最中に論文書かされるハメになった、被害者なんですからね」

「小園君……」

先輩が突然、ボクの肩を掴んだ。

ぽたりと垂れた汗もそのままに、先輩は細い目でボクを見つめてくる。

「な……なんですか……? 前言撤回はしませんよ、本当に被害者なんですから……」

「恥も見栄も捨てるから、お姫様抱っこして……」

「ボクは恥も見栄も捨てる気はありません」

「もう歩けないって……絶対人間の生息温度超えてるもん」

「あーもー、早く行きますよ」

くだらない会話もそこそこに、ボクは熱中症を起こしかけている先輩を引きずって、山岸君に教えられた目印の角を曲がった。

目指す山岸君の部屋は、何棟か同じ形のアパートが連なる、集合住宅の一角だ。

説明されていた通り、ボクの目の前にはぐるりと塀で囲まれた、白い大きなアパートが並ぶ土地が現れた。

「えーっと、赤い柱と階段がある棟の、奥側二階……」

「ずいぶんときれいなアパートに住んでるねぇ。壁なんかまっ白で、柱と階段の色で、各棟の区別なんかしちゃってさ。今流行りのテラスハウスってやつ?」

「たぶん普通のアパートですよ。一棟あたりの世帯数が多いから、建物が大きく見えるだけです。無駄に嫉妬しないでください。というか、自分だって高層マンションの四階に住んでいるじゃないですか」

「高層マンションの四階ってのが、平民臭いよねぇ」

「先輩が貴族だったら、それはそれで嫌ですけどね。ああ、ほら、あそこが山岸君の部屋ですよ」

ボクはアパートの奥二階を指さした。

アパートが縦方向に並んでいるため、アパートに挟まれた数メートルほどの小道を歩かなければならない。

「ここからまた階段を上がるのかぁ……」

「二階ですから。たったの二階ですから」

ともすればしゃがみ込みそうになる先輩の襟首を捕まえ、ボクは階段へと向かった。

アパートに挟まれた小道の奥、突き当りには高い塀が立っており、向こう側に何があるかは見えない。

新しく、きれいなアパートなはずなのだが、二階建ての建物に挟まれた、この狭い通路は薄暗く、寂しげに見える。

通りから離れ、セミの鳴き声しか聞こえないからかもしれない。

ボクはなんとなく不安を感じ、周囲を見回した――その時、ボクと先輩の体がビクリと震えた。

「…………老婆がいる」

へばっていたはずの先輩が、低い声で言った。

そう、アパートの奥、塀とアパートとの間にある狭い空間に、車いすに乗った老婆がいたのである。

彼女はコンクリートでできた、何の変哲もない塀をじっと見つめている。

車いすと体の一部が見えたので気が付いたが、一切音を立てず、身動ぎすらしないその様子は、まるで人形か――。

――ミイラみたいだ……。

白髪を風に揺らす老婆に薄ら寒いものを感じ、ボクと先輩は顔を見合わせて、こっそりと階段を上がった。

踊り場でくるりと方向を変え、さらに短い階段を上がるとすぐ左に山岸君の部屋のドアがある。

向かいにもドアがあるが、おそらく今は空き室になっているのだろう。空の表札に蜘蛛の巣が張っている。

蝉の声だけが聞こえる静かなアパートに、チャイムの音が響く。

「ういーっす」

いつものように間の抜けた返事をして、山岸君がドアを開けた。

「なんだよ、早えぇよ。時間通りじゃん」

「キミは……寝ていたようだね」

ぼさぼさ頭と無精ひげの彼は、悪びれる様子もなく口元をゆがめた。

「せっかくの休みなのに、レポートまとめなきゃいけねえんだ。ギリギリまで寝かせてくれよ」

「さては、ギリギリまで寝ていたいから、自分の家でレポート書こうとか言い出したんですね」

「八割そうだけど、二割は外に出るのが暑くて面倒だったからだよ」

「キミのその言動を、新しい彼女に見せてあげたいね」

「うるせえな、早く上がれよ。クーラーの冷気が逃げるだろ」

適当に促されつつ、ボクらは玄関を上がった。

思っていたよりもきれいに片づけられていることに驚きつつ、山岸君を先頭に短い廊下を進む。

廊下の左側には洗面所と、それにつながるトイレとお風呂場が見える。

反対側には、小さなキッチンとダイニングがあり、飲みかけのコーヒーがテーブルに置かれていた。

そして、廊下の突当り、玄関から正面の位置にドアがあり、そこが主に使っている部屋があるようなのだが……。

「……二部屋ある?」

正面のドアの手前、ダイニングの隣に位置する場所に、もう一つドアがあるのが目に入ったのだ。

「山岸君、ここ何DKなの?」

「2DK。っても、そっちの部屋は物置に使ってて、滅多に開けてないけどな」

「宝の持ち草ですね……」

ワンルームで二人暮らしをしているボクは、ぼそりとそんなことを言いつつ、なんとなく、開かずの間となっている部屋のドアの前に立った。

クーラーなんてかかっていないはずなのに、ドアの隙間から冷たい風が流れてくるような気がする……。

いや、よく考えたらこの部屋だけではない。アパートの敷地に入ってから、体感気温が二、三度下がった気がする。

――きっと、気のせいだろう。

ボクはそう思うことにして、閉まったままのドアの前を過ぎた。

そして……。

「ここが俺の部屋ー」

山岸君が、無造作に部屋のドアを開けた。

開け放たれた山岸君の部屋。

分厚いカーテンが下がった部屋は暗く、先輩のとは違う、変わった香りのタバコの臭いが鼻をつく。

だが、ボクが一番気になったのは――。

「うわっ……びっくりしたー」

ドアの目の前直線上に、大きな姿見が置かれていたことだ。

姿見はドアを開けたボクらの驚いた姿と、その後ろにある廊下と玄関とを映し出している。

「なんで玄関開けて真正面にある位置に、鏡なんて置いてるんですか?」

「はぁ? なんでって……位置的にそこしか置く場所なかったからだよ」

言われてみれば、部屋の隅にベッドと小さな机が置かれており、反対の隅には本棚とPCが置かれている。

そうなると、姿見が置ける場所はそこくらいしかないだろう。

だが、置ける場所が限定されるといえ、ドアを開けてしまうと玄関まで一直線に映し出してしまう状態なのは、非常に気になる。

「あの……せめて使わないときは、鏡にカバーをかけるとかした方が……」

「めんどくせえじゃん」

「ですが…………」

鏡を気にするボクに、先輩が目を向ける。

「ずいぶんと鏡を気にするねぇ。確かにドアを開けた瞬間、自分が映るってのは、ちょっとドッキリだけど、なんか理由でもあるのかい?」

「実は、祖母が玄関の正面に鏡を置くと縁起が悪いって、よく言っていたもので……」

「なにそれ、風水的ななんかかよ」

「よくはわからないんですが、鏡は魔を映し出すものだから……とかそう言う理由だったかと」

「小園はばあちゃん子だよなー。むしろ玄関から入ってきた悪霊を跳ね返すから、縁起がいいかもしんねえぜ?」

「……すみません、やっぱり気になります」

「おいおい、勝手に何してんの? オマエ」

ボクは山岸君の非難の声を無視し、姿見を持ちあげると、ずるずると向きを変えた。

横を向いた鏡は山岸君のベッドの足元を映し出すことになるが、なんとなく先ほどよりマシな気がする。

「すみません、気に入らなかったらまた戻しても構いませんから、ボクらがいる間はこうしていてもらえませんか」

「……オマエの恋人、結構強情だな」

「んー、そこがいいところでもあるんだけどねぇ」

「先輩、余計なことを言っていないで、さっさとレポート仕上げましょう」

「下手すると、泊りがけになるかもしれないからねぇ」

「そしたら、その空いている部屋で寝りゃいいよ。布団ならあっから」

「……遠慮したいところですね……」

ボクはエアコンの冷気を逃さないため、そして……先ほどから気になっている、開かずの間のドアから視界を遮るため、部屋のドアを静かに閉めた。

ドアを閉める直前、誰もいないはずの部屋のドアが、かすかに揺れたような……。

 

 

②へ続く⇒■

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