山岸君の家②

エアコンの冷気が眠気を誘う。

無言で資料を読み漁り、要点をまとめる作業に勤しむボク。

英検もろくろく持っていないくせに、英経済研究室に入ってしまった山岸君は、資料をめくる度に翻訳サイトを開いているし、先輩は英字新聞を広げて、一時間は同じページを睨んでいる。

イギリスの経済状況がどうなろうが、この先ボクの人生にろくろく影響しないであろうはずなのに、どうして今必死になって、紅茶の国の経済状況や、それに付随する様々な問題点を研究しなくてはならないのであろうか。

そんな思考が、ボクの手を完全に止めていた。

「……小園君」

「ふあぁっ!?」

「今、目を開けたまま寝ていたでしょう」

「寝ていませんよっ。それより、他人の意識の有無を確かめるために、ヒトの耳に息を吹きかけるのはやめてくださいよ」

「そうだぞー。俺は男同士の共演には興味がねえ。どうせいちゃつくなら、オマエら女体化してからにしろ」

「……山岸君も、かなりレポートに飽きてきてますね」

「当ったり前だろ。どうせこのレポートだって、教授のくだらねえ講義の資料になり下がるだけなんだしよー」

「はぁ……少し休みましょうか……」

そう言ってペンを置いたボクの耳に、金切り声が届く。

『っるっせーーー!』

『やってみろや、ババァ!!』

『殺してやるっ!!』

――また始まった。

先ほどから時折、親子喧嘩の怒鳴り声が外から聞こえていたのだ。

どうやら、ご近所に少々荒れたご家庭があるようだが……。

「なんだか、ずいぶん派手にやってるねぇ」

「ここ、土地柄か結構DQNが多くてさぁ」

「………………」

「先輩、今『キミが住んでいる所だしね』って、言葉を飲み込みましたね」

「いや……でも、こんだけ大騒ぎする家庭が多いと、うるさいでしょう」

「そうだなー。向かいの家は子持ちの家族だったんだけどよ、父親の会社が倒産とかで、借金取りがうるさかったんだけど、一家離散で引っ越してったし」

「……ほほう……」

「あっちの棟の一家も、子供がグレまくって、少年院送りでいつの間にかいなくなってたし」

「へぇ……」

「下の家は同棲カップルだったんだけどよ、男がDVで女を殺しかけたらしくてさ、朝起きたら警察にしょっぴかれて、気がついたら空き室になってたし。あいつらも、その内出ていくだろうから、ほっとくことにしてんだよ」

「…………修羅のアパートですね」

こうして話している間にも、ガラスを割る音が響き、母親らしき声が金切り声を上げているのが聞こえる。

『あんたを殺してやるっ!』

『やめ……やめろよババ……ギャアァァツ!!』

一際激しい叫び声が聞こえたと思いきや、急に外が静かになった。

あとはエアコンの低い音と、蝉の穏やかな鳴き声が聞こえるだけだ。

「色々と大丈夫なんですか……? このアパート……」

「他人のことにはクビを突っ込まねえのが、俺の生き様だから」

「いや……まぁ……」

家主が気にしないというのなら仕方がないが……。

ボクの方がなんとなく気になってしまい、立ち上がって、閉め切ったままだったカーテンを開けた。

いつの間にか外は日が暮れており、もう外灯がつき始めていた。

暗くなったアパートの周囲は昼間見た時よりもさらに寂しく、

そして――。

「先輩……見てください……」

「んー?」

ポツンと灯る、アパート奥に設置された外灯。

その冷え冷えとした灯りの下に、先ほどの車いすの老婆が居たのだ。

青白い蛍光灯の光を反射し、白銀の髪だけが、ヌラヌラと輝きを放っている。

「こっち……見てるね」

「はい……」

老婆は微動だにせず、落ち窪んだ目で窓を見上げている……。

「……や、山岸君。あの老婆に見覚えは?」

「ああ? ……近所のボケ老人だよ。しょっちゅうこの辺をうろついて、一日中ボーっと座ってんだよな」

「大丈夫なんですか?」

「気が付くといなくなっているし、家族が迎えに来てるんじゃねえの?」

ずいぶんと適当なことを言っているが、元から彼はそういう人間なので、今更気にすることもない。

だが、ボクは老婆の目線や近所の叫び声、そして……高い塀の向こう側が気になり過ぎてしまい、完全に集中力を失ってしまった。

「あの……ちょっと気晴らしにコンビニ行ってきます。みんなのコーヒー買ってきますよ。あ、夕飯のお弁当も買ってこないとですしね」

ボクの隙のない言い訳に、先輩も腰を浮かせる。

「それなら俺も行くよ。タバコ休憩したいしね。山岸君は焼き肉弁当でいいかい?」

「ああ、頼んだぜ」

山岸君は適当に手を振り、ボクらを玄関から送り出した。

夜になって気温は下がったとはいうものの、外はムッとした熱気が立ち込めている。

コツン……コツン……と二人分の足音が階段に反響する。

昼間はあんなにこぎれいに見えたアパートも、空き室ばかりで光が見えず、陰鬱な気配がする。

そして何より、薄気味の悪さに拍車をかけているのは――あの老婆。

 

 

 

キィ……。

 

 

 

アパートの前に移動した白髪の老婆が、ずっとこちらを見ている。

 

 

 

キィ……。

 

 

 

車いすが揺れ、耳障りな音を立てている。

日に焼け、しわだらけになったその姿は、やはりミイラのように見えてしかたがない。

「先輩……」

「うん…………」

先輩も気になっていたのか、ボクと目を合わせると静かにうなずき、そして――怖々と老婆の元へと近づいた。

黒く影を落とした目は、もはやただの眼孔のようにも見える。

その黒い穴のような眼をボクらに向け、老婆はじっと座っていた。

「あの……」

先輩が上ずった声で話しかける。

聞こえているのかいないのか、老婆はただひたすらその身を夜風に預けている。

「あの……。こ、こ、こんばんは……」

緊張した様子の先輩は、どう話しかけていいのかわからないようだ。

だが、それはボクも同じ。

「あの、お婆さん……ご自宅はどこですか? ご家族のお迎えは……?」

五十センチほど離れたところに座る老婆に、ボクは大きな声で話しかけた。

ジッ……っと音を立てて、外灯に止まっていた蝉が逃げていく。

 

 

 

キイ……。

キイ……。

 

 

 

時が止まったような時間が過ぎていく。

 

 

 

キイ……。

キイ……。

 

 

 

沈黙を続ける老婆に、ボクらは諦めて立ち去ろうとした……が、ボクは、彼女口元が微かに動いていることに気が付いた。

「わ――に――ねぇ」

「すみません……もうちょっと大きな声で――」

「私は――に――かねぇ」

「え……え……?」

「私は、どこに、入るの、かねぇ」

確かに、老婆がそう言ったのが聞こえた。

一瞬、何を言っているのかわからなかったのだが、彼女がゆっくりと横を向いたとき、その言葉の意図が理解できてしまった。

老婆が首を向けた先は、アパートの突当りの塀。

だが、ボクは山岸君の部屋から外を見た時に、知ってしまったのだ。

その塀の向こうは古いお寺が管理する、墓地だということを。

「私は、どこに、入るの、かねぇ」

老婆は塀を見ていたのではない。塀の先にある、墓地を見てその言葉を言っているのだ。

「あ……えっと……」

「私は、どこに、入るの、かねぇ」

「ど……どうでしょうかね……はは……」

先輩とボクは答えに窮し、じりじりと後ずさりながら老婆から離れた。

「私は、どこに、入るの、かねぇ」

「し、失礼します……」

形容しがたい薄気味の悪さを覚えつつ、ボクらはこそこそとその場を立ち去った。

「……先輩、『失礼します』って突然会話を断ち切って去るのは、失礼かと思いますよ」

「他にいい言葉なんて思い浮かばないよ……。だってあのお婆さん、なんか怖いし……。ボケちゃってるんだろうけど、塀の方を向いて『どこに入るのかねぇ』……なんて言われても、どうしていいやら」

「塀じゃないですよ。あの塀の向こう、結構大きい墓地があったんで、そこのことを指して言っているんだと思います」

「墓地、あったんだ……。だから山岸君の部屋、線香臭かったんだねぇ」

「え、線香の臭いなんてしました? 変わったタバコの臭いだなーなんて思っていましたけど……」

「意外と鈍いねぇ、小園君は」

「………………」

鈍感の極みと思っていた先輩に鈍いと言われ、ボクは心外で口を閉ざした。

人気のない通りに出ると、そこはかとなく線香の香りが鼻を突く。

「昼間は気が付かなかったけど、夜になると線香の臭いが気になりますね。すぐ近くに墓地があると、こんなに臭うものなんですね」

「うーん……たぶんこの線香の香りは、墓地からじゃないねぇ」

「じゃあどこからですか?」

「そこ…………」

先輩は気を紛らわすかのようにタバコに火を付けつつ、顎でアパートの並びの一角を示した。

昼間は人もおらず気が付かなかったが、暗くなった今はそこに煌々と明かりがつけられ、黒い服を着た人たちが出入りを繰り返しているのが見える。

そう、そこは民営の葬儀場だったのだ。

「墓地と葬儀場に挟まれていたんですね、山岸君のアパート……」

「移動の手間が省けるよね」

「先輩…………」

憎まれ口をたたく先輩。

だが、ボクは知っていた。

彼は不安を感じるとタバコを吸うペースが速くなる。

そして、彼はすでに二本目のタバコに、火を付けていたのだった……。

 

 

③へ続く⇒■

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